館長だより 第37号
館長だより 第37号

館長の見聞録(17)

2013/07/28

   ☆ 一支国 探訪 (その3)

 一支国展望

 朝から霧が深く、時々、雨も煙るように降る。

 視界はとても悪いが、とりあえず壱岐で一番高い山・岳ノ辻の展望台へ行く。

 岳ノ辻は一番高い山といっても、標高212.8mである。

 東京タワーよりも低い。


 しかし、周りにそれ以上高いものがないので、晴れていれば壱岐全島と眼下に郷ノ浦の町並みと湾がひろがるという。

 壱岐は八浦と呼ばれているが、そのいくつかの入江が確認できたかもしれない。

 それに、北に対馬、南に佐賀の呼子の山並みも望むことができるという。

 残念。霧の中に想像するほかはない。

 唯一の救いは、のろし台である。

 展望台の横に石で組まれたのろし台が復元されている。

 663年に白村江の戦いで大敗した倭国は、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて、防衛体制の確立を急ぐ。

 北部九州の太宰府の水城や西日本各地に古代山城を築き、防人を配備する。

 その一環として、各地に通信網としてのろし台を設置する。

 のろしは昼は煙、夜は炎を用いたとされている。

 壱岐だけで、14ヶ所もあったという。

 たぶん、対馬にも同じ物が造られているであろう。

 唐・新羅軍の襲来をいちはやく、太宰府やヤマトの朝廷に知らせるためである。

 復原されているのろし台は、このときのものである、とガイド嬢がいう。

 説明板がないので、どこまで忠実に復元されているかわからないが、第一印象はりっぱすぎるなあと思った。

 どちらにしても、この場所にのろし台があったことはまちがいないだろう。

 激動の歴史の残跡がここにある。


 原の辻一支国王都復原公園

 水田のなかに忽然として一支国の王都が出現する。

 少し小高い丘の上に、物見櫓、王の館など17棟の建物が復原されている。

 メインイベントのはじまりである。

 バスは復元公園の西側中ほどにある入口に停まる。

 入って、すぐ右側が迎賓場の建物域である。

 外国使節団の滞在した建物、従者の宿舎、使節団の荷物を保管する倉がある。

 パンフレットにはそう書かれてるが、根拠はあるのだろうか。

 隣に祭儀場とされた建物域がある。遺跡内で一番高いところである。

 発掘でこの場所から溝と柵列跡が見つかっている。

 塀で囲まれた聖域を思わせる。

 聖域の出入口には2本の柱が立てられ、その上端に木製の鳥形が載せられている。

 鳥居の起源と考えられている。

 ≪集落の最も高い場所には祭儀場があります。
  ここは一支国の祭祀や儀式を執り行った中心の場所と考えられており、
  高床の主祭殿をはじめ、4棟の建物が直線状に並んでいます。
  周囲を生垣で囲み、出入口には鳥形をのせた門柱が建ててあります。≫

 祭儀場の横には王の館がある。

 王の館は、住居としては最大規模を呈し、家の周りに溝があり、他の住居とは趣が異なる。

 ≪最大規模の竪穴住居で、一支国の王の館と想定されています。
  出入口の正面には目隠しの間仕切り壁があり、室内には権威を象徴する鏡や剣なども置かれていたと思われます。
  桁行9.7m、梁間6.7mの伏屋構造の大型竪穴住居です。
  寄棟の茅逆葺き屋根で、屋根飾りが付いています。≫

 王都で一番重要な祭儀場と王の館が決まり、その結果をふまえて、大きな住居を使節団用の迎賓場に想定したということらしい。

 ≪祭儀場や王の館からほど近い所に大型住居や高床倉庫などがあります。
  ここは外国から訪れた使節団をもてなす場所と考え、楽浪郡や帯方郡からの使節団の長らが滞在した情景を想定しました。≫

 「壱岐 原の辻一支国王都復元公園ホームページ」に復原のコンセプトが書かれている。

 ≪ 原の辻一支国王都復元公園の整備は、3世紀末に記された中国の歴史書『三国志』に登場する「魏志」倭人伝に書かれた一支国(いきこく)の王都の姿を再現することを目指しました。
  復元整備を行うにあたり、実際に発掘調査を実施し、丘陵上にはどんな遺構があったのか、どんな遺物が発見されるのかなどの情報を収集し、発掘調査の成果を基に復元する建物や遺構を選定しました。
  今回は一支国の王都として栄えた弥生時代後期にスポットをあて、王都の拠点だった中心域と集落を取囲む環濠の一部〔環濠域〕を復元しました。 ≫

 また、復元建物コンセプトもある。

 ≪復元した17棟の建物の真下の地中には、実際に発掘調査で検出された遺構が残っています。
  柱の位置や数、住居の規模などは忠実に再現しています。
  また、遺構が発見された場所や出土した遺物から、当時の一支国における建物の役割を想定し、ストーリー化した内容です。
  実際の役割とは異なる場合もあります。 ≫

 使節団の宿舎が王都の中心部に設けられていたかどうかは簡単に決められることではないが、一試案としては興味深い。

 他には、大人(たいじん)の住居や物見櫓、番小屋、倉庫、集会場などが復原さている。

 祭儀場域の南には周溝状遺構がある。

 これは関東地方で多く見られる方形周溝墓ではなく、溝から鉄剣、鉄鎌などが見つかっているので、何らかの儀式が行われた場所と思われている。

 遺跡の東側には、門・柵や環濠の一部が復元されている。

 今回は時間がなく、場所は中心部から少し離れているので、そこまで行かれなかった。残念である。

 遺跡の北西部で発見された船着場跡は埋め戻され、そこを示す目印の杭があるだけという。

 その場所にも行かれなかった。残念。

 復原公園の横には、原の辻ガイダンスの建物がある。

 ここには、体験学習室や展示室がある。

 ここにも寄れなかった。

 もう一度、ツアーではなくここへ来ないと、満足できる見学はできない。


 又一海を渡る千余里

 帰りの船は印通寺浦(いんどうじうら)から乗る。

 この湾は小さいが、湾口には湾より大きい妻ケ島があり、風を防ぐので良港という。

 ただし、水深が浅く現代の大型船にはむかない。

 カーフェリーで、南へ壱岐水道を渡り、唐津東港へむかう。

 倭人伝には壱岐、末廬間の方角が書かれていないので、邪馬台国時代の到着港には、研究者によって佐世保から呼子(よぶこ)、唐津や宗像まで候補地がある。

 今回乗った帰りの船は、孤独に大海原を行くというよりも、霞んではいても常に左右に島影が望め、安心、安全の航路のように思えた。

 遣使船の最大の目的は、無事に役目を果たすことなので、印象としては呼子、唐津へ向かうコースが郡使や魏使がやってきた航路と思われる。

 唐津は末廬国にふさわしい遺跡群が発掘されている土地である。

 1時間40分の船旅を終え、唐津湾に入ると左手に唐津城が出迎えてくれる。

 唐津に上陸して、バスに乗り換え福岡空港へ向かう。

 虹の松原を通り、糸島半島の基部を横断して、福岡平野に入る。

 邪馬台国時代でいえば、末廬国、伊都国、奴国である。

 期せずして、この道は魏使がたどったコースである。

 最後まで、愉しい旅になった。

                                      (完)


  写真19:霧にかすむ岳ノ辻展望台(館長撮影)

  写真20:晴れた時の風景(ネット「ながさき旅ネット 岳ノ辻展望台」より)

  写真21:復原されたのろし台(館長撮影)

  写真22:原の辻一支国王都復原公園の遠景(ネット「ウィキペディア 原の辻遺跡」より)

  写真23:祭儀場の並ぶ建物群 右より祭器・儀器の倉、食材の倉、主祭殿、脇殿(館長撮影)

  写真24:祭儀場への出入口に建てられた門柱、奥は王の館(館長撮影)

  写真25:王の館(館長撮影)

  写真26:使節団の倉(館長撮影)

  写真27:物見櫓(館長撮影)

  写真28:周溝状遺構(「原の辻一支国王都復原公園」パンフレットより)

  写真29:王都への出入口にある門・柵(「原の辻一支国王都復原公園」パンフレットより)

  写真30:東側にある環濠(「原の辻一支国王都復原公園」パンフレットより)

  写真31:唐津東港をのぞむ山の上の唐津城(館長撮影)


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