上野の東京国立博物館に「国宝 大神社展」を見に行ってきた。目的は国宝の七支刀である。
一昨年、奈良の山辺の道を歩いて石上神宮に寄ったとき、七支刀が非公開で残念な思いをした。
七支刀は図録の写真では何度も見ているが、実物はまだ見たことがない。
それが、今回見られるという。
東博の力は偉大だ。
七支刀は「伝世品」の部屋の中央に展示されている。
木枠が施されている二枚のガラスの間に入れられ、表・裏の両面から見られるようになっている。
横向きに置かれてる七支刀の第一印象は、意外に小さいなあであった。
長さが74.8cmといろいろな本に書かれてはいるが、漠然と日本刀ほどの大きさをイメージしていたのかもしれない。
かなりそばで見られるが、光の加減か残念ながら金象嵌の銘文はよくわからなかった。
下から三分の一ほどのところで折れているというが、それもわからなかった。
これは展示がうまいのか。
展示品の説明文がある。
≪七支刀 古墳時代4世紀 奈良・石上神宮
石上神宮に神宝として伝世した特異な形状の鉄剣。
身の表には作刀の年記と目的。裏にはその経緯が金象嵌で記されている。
中国東晋の太和4年(369)に制作され、百済王から倭王に贈られたものとする考えが有力。≫東博は銘文の大意をネットの「東京国立博物館 1089ブログ」に掲載している。
≪この刀剣には、表裏合わせて61文字が金象嵌されている(彫った文字の上に金がのせられている)。
その銘文の解釈には諸説あるが、大意はざっと以下のとおりだ。
「泰和(太和に通じる)4年の吉日に上質の鉄で七支刀を造った。
この刀は多くの敵兵を退ける力があり、侯王にふさわしい。未だこのような刀は百済にはなかった。
百済王・・・(中略)・・・倭王のために造り、後世に伝えられるように。」
これにより、この刀剣が中国・東晋の太和4年(369)に制作され、百済王から倭王に贈られたことが推測される。
「七支刀」は、日本の古代史のみならず当時の東アジア情勢を考えるうえでもきわめて貴重な史料なのだ。≫以上が、一般的な解釈であると思われる。
銘文に刻まれている文字は研究者によっていろいろ異論がある。
その異論のある部分をすべて■とすると、銘文は以下のようになる。
表:秦■四年■月十■日丙午正陽造百練■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■■
裏:先世以来未有此刀百済■世■奇生聖■故為倭王旨造■■■世
つぎの文字が、現在まず妥当とされているものである。
表:秦和四年五月十六日丙午正陽 造百練鉄七支刀 出辟百兵 宜供供侯王 ■■■■作
裏:先世以来 未有此刀 百済王世子奇生聖音 故為倭王旨造 伝示後世
宮崎市定氏は『謎の七支刀』(1983・中公新書)で次のように解読をしている。
表:泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
泰始四年(468年)夏の中月なる五月、夏のうち最も夏なる日の十六日、
火徳の旺んなる丙午の日の正午の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。
これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。
恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。裏:先世以来未有此刀 百済王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世
先代以来未だ此(かく)(七支刀)のごとき刀はなかった。
百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。
後世に伝示せんかな。銘文の第一字が「泰」であるので、年号は、西晋の泰始、北魏の泰常、南朝宋の泰始、南朝宋の泰豫が考えられる。
「泰」は「太」と字音も意味もまったく同一ということから、魏の太和、東晋の太和、北魏の太和などがある。
宮崎氏の泰始や東博の解説にある太和がどういう根拠に解読したかは、それぞれの本にゆずるが、一つ疑問がある。
金石文で字を記すとき、字画数の多い字を簡略化することはよくあることだが、4画の「太」を10画の「泰」にかえるであろうか?
もともと「太」であるのに、わざわざ手間のかかる「泰」に変える明解な理由がわからない。
銘文でもう一つ、「百練■」について。
これは常套句で、「百練鋼」か「百練鉄」であるらしい。
埼玉の稲荷山鉄剣にも「百練利刀」とある。
ところが、江田船山鉄刀には「八十練」とある。
ほかにも五十練や三十練もあるという。
単なる常套句ならば、江田船山鉄刀でも「百練」とすればいいのにと思う。
「練」は鉄を鍛錬する慣用句ではなく、鉄の純度の問題であるらしい。
新日鉄基礎研究所で調べたところ、百練の鉄は不純物の含有率が0.1〜0.2%で、三十練の鉄は0.7〜0.8%という。
百練は伊達に使っているわけではないということになる。
この「練」のことはネットで七支刀を調べていたら、たまたまNHK特集の動画を見つけ、それで知った。
「NHK特集 謎の国宝七支刀 〜空白の古代を科学する」(1981.2.9放送)である。
いまでも見られるので、興味のある方はこちらの「謎の国宝七支刀」をどうぞ。48分。
銘文の解釈では、相見英咲『倭国の謎』(2003・講談社)が目をひいた。
氏は、刀身の表面・裏面にある銘文は別々の時に刻まれたもので、つなげて読むのはまちがいという。
≪表文は「□□□□作」で完結している。
即ち、表文と裏文とは全く別時に刻まれ、全く別の思いが表現されている。
それは、製作時(369年)と倭王にもたらされた時(372年)の開きとに密接に関係があるに違いない。≫相見氏の解釈文を紹介する。ご批評はみなさんにおまかせする。
表:泰和四年五月十六日丙午正陽、百練鉄の七支刀を造る。
……百兵(もろもろの武器)を辟(さ)けん。
供供たる侯王(うやうやしいあなたさま)に宜(よろ)し。
□□□□(工人名)作る。裏:先世より以来、未だ此(かく)のごとき刀有らず。
百済王世子は、奇しき生まれにして聖なる音(ほまれ)あり。
故に倭王の為に嘗(はじ)めて造る。
後世に伝示せよ。七支刀は以前、六叉鉾と呼ばれていたことがあるという。
銘文に七支刀とあるから、刀と呼んでいるが、これは突き刺す武器であり、槍か鉾であろう。
今回は、はじめて実物を見ることができて、念願がかなえられて喜んでいる。
七支刀を見た帰りに考古の展示場で、新発見の青龍三年銘の方格規矩四神鏡も見られた。僥倖。
京都府・太田南5号墳(1994年発掘)、大阪府・安満宮山(1997年発掘)に次ぐ3面目である。
この3面はいわゆる同型鏡または同笵鏡といわれている。
新発見鏡は、某氏が古美術商から1975年頃購入されたもので、出土地、出土状態についての情報はない。
そのため、発掘調査によって得られたものでない新発見鏡は、考古資料としては「ただし」付となる
東博の展示場内はフラッシュを使わなければ撮影可であるが、なぜかこの鏡に関しては撮影禁止となっている。
この鏡の詳細については、『考古学雑誌』(第86巻第2号・2001)の車崎正彦「新発見の「青龍三年」銘方格規矩四神鏡と魏晋のいわゆる方格規矩鏡」に詳しい。
興味のある方は、そちらをご覧いただきたい。
知識を得るには、先人の書物に負う所が大である。感性を高めるには、実物を見ることに勝るものはない。
両者相まって、真実に近づくことができるのかもしれない。
これからも、できうるかぎり博物館や展示会に足をはこんで、実物を見ていきたいと思う。
写真1:「国宝 大神社展」パンフレット写真2:国宝・七支刀(ネット「東京国立博物館 1089ブログ」より)
写真3:七支刀展示の様子(ネット「東京国立博物館 1089ブログ」より)
写真4:展示場の七支刀、表側(ネット「インターネットミュージアム 国宝大神社展」より作成)
写真5:展示場の七支刀、裏側(ブログ「視人庵BLOG 国宝大神社展 ブロガー内覧会」より作成)
写真6:展示場の七支刀の説明パネル(ブログ「視人庵BLOG 国宝大神社展 ブロガー内覧会」より作成)
写真7:新発見の「青龍三年」銘方格規矩四神鏡(『考古学雑誌』(第86巻第2号)より)
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