館長だより 第28号
館長だより 第28号

館長の見聞録(12)

2013/03/24

   ☆ 奈良・大阪の遺跡・博物館 見学記 (その8)

  (8) 大阪府立弥生文化博物館と池上曽根遺跡

 台風による雨が降り始めてきた。

 和泉市にある大阪府立弥生文化博物館に向かう途中で雨は激しくなり、着いたときは土砂降りとなった。

 そのうえ、博物館は台風のため臨時休館になっていた。えっ!!

 しかし、事前に連絡していたこともあり、博物館の好意で、遠路やってきた我々は特別入れてもらえた。ありがたい。

 おかげで、貸し切りである。学芸員の方が付きっきりで案内をしてくれた。感謝。

 大阪府立弥生文化博物館は、弥生時代の池上曽根遺跡の史跡公園整備の一環として、各地から集められた弥生文化に関する資料の収集と研究、展示を行っている博物館である。

 タイムトンネルを通ると第1展示室、そこはもう弥生時代である。

 考古学、民族学の成果をもとにしたジオラマが忠実に復元されている。

 卑弥呼の館も大型模型で展示されている。

 模型の中央には、どこかの使者を迎えるようすがみられる。

 細かいところまで表現していて、すばらしい。

 土塁と柵の内側に空堀の環濠があり、外側には水がある川か、濠がある。

 土塁の内側に濠があっては防御には役に立たない。

 それをカバーするように外側に川を設けているのか?変なことが気になる。

 この模型はどこの遺跡をイメージして作られているのかなあ。

 戦いのコーナーの壁一面に、山本輝也の描く「吉野ヶ里の戦い」の絵がある。

 環濠や土塁をはさんで戦う両軍の兵士のようすがある。

 第16号で触れたように、内側の環濠に違和感をおぼえる。

 展示品には、八尾市で出土した船の実物大模型やレプリカだが、金印もある。至れり尽くせりである。

 個人的に興味をひいたのは、二つのガラス璧片加工円板である。

 福岡県峯遺跡十号甕棺から出土したものである。初めて見た。

 大きさは径3.8cm、と径3.5cmで、ともにその中央に小孔が穿たれ、表面には穀粒状文が規則的に配されている。

 濃緑色を呈し、舶載のガラス璧を再加工した装飾品と思われる。

 日本での璧製品の出土は少なく、貴重な資料である。


 第2展示室は池上曽根ワールドである。

 展示室中央には弥生時代最大級の径約2mの井戸のレプリカがある。

 井戸は楠の巨木をくりぬいて作られている。

 上から、横から、中から見られて井戸の大きさを体感する。

 話題になったBC52年伐採の柱材も展示されている。

 この柱の年代について山口順久氏の指摘がある。

 測定者がこの照合に使用されたといわれる暦年標準パターンの詳細が一切不明であるという。

 ≪できうるならば、年輪年代法の科学性を担保するために、年輪測定の生データを、とくに標準パターンFの作成に用いたすべての資料の年輪データを情報公開し、
  さらにできることなら奈良国立文化財研究所で予算を付けて第三者機関で一から標準パターンを作成するというチェック作業を行って貰えたらと願うものである。≫

 ということは、BC52年は根拠になったデータを一切公開せず、だれもチェックをしてない測定結果ということなのであろうか。

 そんな科学的調査などあるのだろうか?

 山口氏の指摘に対し、測定者からの説明はあったのだろうか?まさか、無視されたままということはないと思うが……。


 第3展示室は特別展示室で、このときは「穂落とし神の足跡――農具でひもとく弥生社会」が開催されていた。

 部屋中に各地から出土した木製農具が一面に展示されている。壮観である。

 クワやスキなどは、今と形が同じである。

 日本に伝えられた時はもう完成していたということになる。

 だからこそ、日本での稲作伝播が短時間のうちに東北まで到達したのだろう。

 展示品のクワなかにもう一枚、板の付いているものがある。

 なんだろう?初めて見た。

 説明が書かれている。

 ≪平鍬とそれに組み合う泥除けがセットの状態でみつかった。この鍬の発見によって、従来用途の明らかでなかった「泥除け」の存在が明らかになった。≫

 泥除けとは、湿田を鍬で耕すとき、跳ね上がる泥が耕作者を汚さないように取り付けるものである。

 今まで、陣笠状木器とか、丸鍬とか呼ばれていた用途不明の木製品が、福岡の那珂久平遺跡での発見で一気に解決したという。

 一つの発見が長年の謎を解明する。考古学はこれだからおもしろい。新発見は偉大だ!


 次は隣接する池上曽根遺跡の見学である。

 外は相変わらずすごい雨である。

 遠くに見える高床式の大型掘立柱建物も雨に泣いている。

 復元家屋は中に入れるようであるが、雨で叶わなかった。残念。

 それに建物の横には男女をあらわす2本の立柱があるというが、それも見えなかった。しゃくな雨である。

 池上曽根遺跡は大環濠集落というが、その溝は浅く平べったい。

 当時の地表面がわからないので、深さはなんともいえないが、吉野ヶ里遺跡や大塚遺跡で見た溝とは印象が全然違う。

 溝では雨がはねている。これは排水溝ではないだろうか。そんな気がした。

 ハンドスピーカーを手に解説をしてくれている安本先生の声も心なしか震えて聞こえる。

 早々にバスに戻り、最期の訪問地、応神天皇陵にむかう。                                           (つづく)


  写真1:復元卑弥呼の館(ネット「大阪府立弥生文化博物館」より)

  写真2:準構造船の船首部の実大模型(ネット「大阪府立弥生文化博物館」より)

  写真3:ガラス璧片加工円板(館長撮影)

  写真4:展示場の井戸枠(ネット「大阪府立弥生文化博物館」より)

  写真5:大型刳り抜き井戸枠(ネット「水野の”縄文写真館” 大阪府の池上曽根遺跡」より)

  写真6:BC52年と測定された掘立柱建物の柱根(左側)(ネット「水野の”縄文写真館” 大阪府の池上曽根遺跡」より)

  写真7:セットで発見された平鍬の身、柄、泥除け(『穂落とし神の足跡』展カタログ 2012・大阪府立弥生文化博物館 より)

  写真8:池上曽根遺跡の復元家屋(館長撮影)

  写真9:池上曽根遺跡の環濠の二重部分(館長撮影)


 (付 記)
 ウィキペディアにある池上・曽根遺跡の抜粋を掲載する。

 池上・曽根遺跡(いけがみそねいせき)

 大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡をさす。
 南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる池上曽根遺跡は、総面積60万uに達する大集落遺跡。
 1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。
 主な遺構
 ・環濠は、二重にめぐらされている。 環濠で囲まれた居住区が約25万u
 ・環濠集落西方一帯の水田域が推定される。
 ・巨大丸太くりぬき井戸(弥生時代中期)、 直径2m、深さ1.2m。樹齢700年のクスノキを一木造りしている。
 ・方形周溝墓×20基(弥生時代中期) 、墓域は約40万u、約15m四方、周囲を溝で巡らせた内部に棺を埋めた跡を5か所検出。
 ・竪穴住居
 ・鉄製品の工房
 ・高床式大型建物 、建築様式:掘立柱建物。
  建物は井戸の北側3.5mにあり、東西17m、南北7m、面積約135uの最大級の独立棟持柱(むねもちはしら)の高床式建物跡で、神殿らしい。
  建物を支えていた直径70cmヒノキ柱の基礎部分25本が腐らずに出土。柱の間隔は1.8m、長辺の中央部2.3m前後。
  土器編年では弥生時代中期後半であるが、柱の1本を年輪年代測定法で調査の結果、紀元前52年に伐採されたことが判明。
 ・土間床平屋建物 、高床式大型建物の南東側に検出。
  規模:南北約30m、東西7.6m、約230u。建物外側に、屋根を支える独立棟持柱の柱痕(直径40cm)を2か所検出。

 池上・曽根遺跡の解説はHP「邪馬台国大研究」に詳しい。

 関心のある方はこちらの池上・曽根遺跡をどうぞ。


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