図書館で歴史関連の本棚を見ていたら、『知られざる大英博物館 日本』(2012・NHK出版)が目に入った。たしか、去年NHKで放送されたドキュメント番組で見た記憶がある。
この放送の単行本というわけである。
特に目的があって手にしたわけではないが、中を見て、手がとまった。
そこには、明治時代に撮影された仁徳陵古墳と見瀬丸山古墳の写真があった。
昨年行った奈良・大阪の旅行のことで、両古墳のことを書いたばかりなので、とてもおどろいた。
明治時代に古墳を撮った写真があるなんて……。
写真の撮影者はウィリアム・ガウランド(ゴーランドとも William Gowland 1842年 - 1922年)である。彼はイギリス人である。明治政府が大阪造幣寮(現・造幣局)のお雇い外国人技師として招聘したのである。
ガウランドは化学兼冶金技師であるが、日本の古墳研究の先駆者としても名高く、日本考古学の父と呼ばれている。
彼の実地踏査は、近畿地方はもとより、南は日向(宮崎県)、西は肥前(佐賀県)、東は磐城(福島県)まで及んでいるという
調査した横穴式石室は全国406基、作成した略測図は140例にも達している。
その中に仁徳陵古墳と見瀬丸山古墳がある。
その写真が大英博物館に保存されている。
明治大学博物館学芸員の忽那敬三氏とセインズベリー日本藝術研究所のサイモン・ケイナー氏。
調査に行ったこの二人が写真を見たときのようすが本にある。
≪大きな箱の蓋を開けた瞬間、2人から「おお!」という声があがる。
そこには紙焼きの古墳の写真が何枚も重なっていた。
ガウランドが明治時代に撮影した古墳の写真だった。(中略)
「こちらの仁徳陵はすごいですね」
「これは仁徳陵ですか。今とは全然違いますね」
「まわりは宅地になってしまっていますので、現在ではこんな写真は撮れません。
ひとつのカットで墳丘全体を収めることは、今は不可能です」≫写真のことも書かれている。
≪その写真には、日本最大の古墳である仁徳陵古墳(大仙陵古墳)を横から見た姿が収められていた。
400メートル以上ある墳丘を1枚の写真に収めるためにはかなり遠くから撮らなければならないが、今では古墳の周囲には住宅などさまざまな建物があるため、不可能である。
ガウランドは前方後円墳を「ダブルマウンド(double mound)」と呼んでいた。
2つの丘のように見えたからだろう。
前方後円墳の多くは、棺が収められている後円部、そして前方部の両方が横から見ると、丘のように盛り上がっている。
現在の仁徳陵古墳はこんもりとしたひとつづきの森になっていて、2つの盛り上がりを確認することはできないが、この写真には、確かに2つの盛り上がりが写し出されていた。≫
文中には写真の左右どちらが後円部かは書かれてはいない。
仁徳陵古墳の前方部の高さが33m、後円部の高さが35mである。
写真を見ると右側が少し高くみえる。
木の盛り上がりを考慮すると微妙な差である。
素直に考えれば、右側が後円部と思われる。
私が仁徳陵古墳を間近で見たとき、あまり巨大すぎてその大きさ、形ががわからなかった。
いくら大きくてもそれがわからなければ、意味がないと、そのとき感じた。
ガウランドの写真を見て、周りに遮るものがなく、離れて全景が見えるならば、大きさがよくわかり、その偉大さを感じられる。
水をたたえた濠に囲まれ、石で整備された墳丘が林立する埴輪で飾られていれば、一目で大王の権力の強大さを実感する。
天皇がこれほどまで巨大な古墳を造る理由に納得がいく。
注目の写真のもう一枚は見瀬丸山古墳である。こちらにはガウランドが「見瀬村の双墳」名づけいている測量図がある。
ガウランドが調査した明治15年は、調査に絶好のタイミングであったという。
明治4年:見瀬丸山古墳を天武・持統天皇の合葬陵に指定
明治13年:天武・持統天皇の合葬陵の指定が野口王墓古墳に変更
明治14年:見瀬丸山古墳の天皇陵指定を解除解除された翌15年に、彼は調査に来ている。彼の調査を邪魔するものはない。
その後、明治30年に見瀬丸山古墳は陵墓参考地となり、現在は誰も内部に入ることはできなくなっている。
彼が訪れたとき、石室への入口が開いていて、彼はなかへ入っている。
≪床は内部に向かってゆっくりと坂になっている≫
≪室の中央付近に縦に置かれた石棺の蓋の一部が、かろうじて水面上に顔を出していた。
形も大きさもごく普通のもので、表面はきれいに整形されており、縄掛突起がついていた。≫
彼は4種の図を描いている。
墳丘を横から見た図、石室の側面図、石室の平面図、中に石室を描いている後円部の断面図。
この中の石室のある後円部の断面図を見ておどろいた。
石室の入口が段築の一段目上にある。
通常、石室の入口は後円部の上部にある。
私は現地を訪れたときに、入口を確認できなかったので、たぶん後円部の上部にある説明板の付近だろうと思い、旅行記にはそう書いてしまった。
もう一度関係書籍をみたら、入口のことがちゃんと書かれている。
第25号の私の記述は間違いであった。いい加減なことを書いてしまった。
きちんと調べて書かなければいけない。訂正とお詫びと反省。
なぜ、下のほうに石室への入口があるのか、というよりなぜ下に造ったかという理由が『知られざる大英博物館 日本』で解明されている。
そして、石室の中心がなぜ後円部中央下にないのか、なぜ石室の位置が後円部中央からずれたのか、その訳も書かれている。
≪5世紀から6世紀中頃以前の段階では、埋葬施設を墳丘の高いところに営むという、それまでの竪穴式石室の伝統は続けられ、横穴式石室も墳頂部近くに営まれたという。
そして、石材が巨大化するにつれ、それを支えるために、石室は次第に比較的低いところに営まれるように変化していったという。≫そして平面的には羨道が長くなり、墳丘の中心部に石室の中心を置いていたものが、中心部が石室の奥壁になり、ついには入口から奥壁まで28.4mという日本最大の石室を造っても、墳丘の中心部に届かなくなったという。
ガウランドは明治時代に古墳の調査をして、それを測量図に正確に描いている。
そして、写真も撮っている。おどろきである。
彼は見瀬丸山古墳の写真も全景を一枚の写真に収めている。
私が現地で撮った写真(第25号に掲載)は3カットをつなげたものである。
航空写真で現在のようすを見ればわかるとおり、古墳の脇まで住宅がある。
当時の古墳周辺は桑畑がひろがり、遠くから全景が見えたのである。
ガウランドの功績は賞賛に値する。
明治維新後の世の中が近代化へ向けて大きく変化しているときに、日本各地の古墳を巡り、調査、測量、撮影を地道にひとり行なっていた外国人がいたとはおどろきである。彼のおかげで、貴重な写真や測量図が残っている。
なかには今はもう壊されて存在していない古墳まである。
ガウランドの写真を見て、あらためて彼の偉大さを知る。
写真1:『知られざる大英博物館 日本』(2012・NHK出版)の表紙写真2:ウィリアム・ガウランド(石室内で撮影)(『知られざる大英博物館 日本』より)
写真3:仁徳陵古墳(ガウランド撮影)(『知られざる大英博物館 日本』より)
写真4:仁徳陵古墳CG(墳丘を囲む埴輪)(『知られざる大英博物館 日本』より)
写真5:仁徳陵古墳CG(全景)(『知られざる大英博物館 日本』より)
写真6:ガウランドが撮影した丸山古墳(明治時代)(『知られざる大英博物館 日本』より)
写真7:縦1.55m×横5mにおよぶガウランドの丸山古墳測量図(『知られざる大英博物館 日本』より)
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