館長だより 第16号
館長だより 第16号

館長のおもいつき(8)

2012/09/02

   ☆ 久世辰男 論文

 久世辰男氏の「弥生環濠集落の環濠外土塁についての疑問」が読みたくて、ネットで県内外の図書館をさがした。

 論文は『利根川』第14号(1993)に掲載されている。

 『利根川』はどこかの機関誌と思われるが、どこの図書館にもない。

 国立国会図書館にもない。

 そこで、久世氏の他の論文に、同じ内容が書かれているものがあるかもしれないと思い、人名で著作物をさがした。

 2件、見つけた。


 1つは、 「環濠と土塁―その構造と機能―」(『月刊 考古学ジャーナル』511 ニューサイエンス社・2004.1)である。

 さっそく、図書館で見る。

 ≪土塁が環濠の内側に位置する場合は環濠の防御性を強化し、外側に位置する場合は逆に防御に不利となることは自明である。
 このような指摘にも拘らず、外土塁構造と防御の矛盾を感じない見解が依然生き続けるのは筆者には理解し難い。≫

 我が意を得たりの思いである。

 久世氏は外土塁の実例として、平安時代の青森県高屋敷館遺跡をあげ、≪想像をたくましくすれば、あたかも外からの侵入よりは中からの逃亡を恐れるかのようにも見える。≫という。

 この見解は、高屋敷館遺跡に限定するならば、成立するかもしれないが、弥生時代の環濠集落の在り方をみると無理である。

 弥生時代の環濠集落は、環濠をもたない集落よりも規模が大きく、周辺集落の母集団的位置に立地している場合が多い。

 大塚遺跡が捕虜収容所集落とは思えない。

 また、久世氏は実見した英国の新石器時代末期のエーヴベリー遺跡の外土塁についても記述している。

 遺跡には、直径約340mの祭祀空間のなかに巨石からなる2つの大ストンサークルがあり、その外側に深さ10mの環濠、その外側に残存高6mの土塁がめぐっているとある。

 ≪祭祀空間は大ストンサークル、環濠、外土塁によって三重に囲郭され、その内部空間密度を凝縮している感がある≫と文節末に記述がある。

 環濠や土塁は、神聖な空間を、侵しがたい領域にするために、幾重にも護る精神的構造物とでもいうのであろうか。

 それならば、外土塁と内土塁の役割のちがいはどこにあるのだろうか。


 もう1つの論文は『集落遺構からみた 南関東の弥生社会』(六一書房・2001)である。

 どこかで見たような気がした。とりあえず蔵書を探してみる。

 蔵書目録が完備していれば、その都度探すことはなくなるのだが、なんとかやっと見つけた。

 本を拡げて驚いた。この本のなかに探していた論文が収録されていた。

 青い鳥ではないが、探していたものは自分の足元にあったとは。

 久世氏は山本輝也氏の描く「吉野ヶ里の戦い」という絵を眺めて疑問が湧いたという。

 守備軍の戦士が敵に攻撃しようにも土塁、木柵が邪魔になって攻撃ができない。

 土塁の上から攻撃しようにも、土塁上に行くには濠の底に一度に降りて、土塁斜面を登らなければならない。

 それだけで、大変な苦労である。

 なかには、濠内に転落している守備軍の戦士もいる。

 ≪このように見てくると、深い環濠、外土塁、土塁上の木柵はすべて攻撃軍に有利に働き、守備軍に不利に働くのは明白であろう。
 以上の考察から、弥生の戦いの舞台となった環濠はこの絵に描かれたような木柵、外土塁付の環濠であったはずがない、と言わざるをえない。≫

 土塁が外側に想定される根拠としては、濠掘削の排出土と思われる土が外側から流入していることと、排出土の高まりが外側に確認されたことがあげられている。

 それに対し久世氏は、本堂寿一氏の「環濠は土地占有の”標”」説をあげ、ひとつの考えとして、環濠自体は防御的側面より境界主張の側面重視の意見を紹介している。

 そして、現実に外土塁では敵を防げないので、≪”環濠に土塁はなかった”といわざるを得ない≫という結論に達している。

 最後に排出土を外側に積んだ理由については以下のように述べている。

 ≪環濠集落の多くはなだらかな台地上の地形に立地し、環濠はその集落を囲んで掘られる。(略)
 従って、排出土が環濠内側につみあげられたとすると、排出土は雨によりまた風化により崩れ、傾斜に従って環濠内に流入し環濠を埋めて行くことになる。
 また環濠内(の集落)に降った雨水は排出土に逃げ道をふさがれて集落内にプールを作り、集落内の生活に支障を与えるだろう。(略)(図109)
 他方、外側に土を積み上げた場合は、雨水が集落を水浸しにすることはなく、雨や風化によって崩れた土は、環濠内に流入するよりは、傾斜に従って環濠外部に流出する方が多くなるだろう(図110)≫


 久世氏は排出土を外側に積んだ理由として雨水の排出が容易なことと、排出土の環濠への流入防止をあげている。

 なるほど、現実的な解釈でわかりやすい。

 佐原真氏は「すぐそばに土を盛り上げるのが、掘った土の最も楽な処理法」と述べられているという。

 そこでこの考えをもう一歩進めると、外排土の理由の候補になりそうである。

 深さ1〜2mの濠底の土を掘ったとき、その土をすぐそばにある今まで積み上げた土の上にさらに積み上げなければならない。

 それがわかれば、最初からわずかでも低く、楽な外側に土を積むのが自然であろう。

 発掘を経験された方ならば、納得していただけるはずである。

 台地の傾斜が大きければ大きいほどその差がでる。

 それと、第9号で述べたように、排出土を環濠内にうず高く積み上げると、そこには住居が建てにくくなり、環濠内の有効面積が一割ほど減ることになる。

 だから、不要な土は外へ排出したと思われる。

 これらも排出土を外側に積んだ理由にひとつと、考えられないだろうか。


 結局、環濠の外側から排出土の流入を土塁と想定したことが、防御に不利な外土塁を生んだ原因ということである。

 久世氏の分析には、無理がなく納得がいく。

 私にとっては、これにて一件落着である。

 頭の中には、もう外土塁は存在しなくなった。

 種類は異なるが、北海道のキウス遺跡(縄文後期段階)の環状土籠のように高さ5.4mの土塁が確認されている例もある。

 しっかり築いた土塁は、残るのである。

 せめて確実な土塁が確認されるまでは、大塚遺跡でも、もう一度、遺跡の復元内容を検討されたらいかがであろうか。


  挿図上:久世辰男『集落遺構からみた 南関東の弥生社会』(六一書房・2001)の表紙。

  挿図中:山本輝也「吉野ヶ里の戦い」の図(『集落遺構からみた 南関東の弥生社会』より)

  挿図下:環濠の内土塁と外土塁の断面模式図(『集落遺構からみた 南関東の弥生社会』より)


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