館長だより 第15号
館長だより 第15号

館長のおもいつき(7)

2012/08/19

   ☆ 外壕内壁・外壁内壕

 横浜市にある大塚遺跡を訪れたとき、復元された濠の外側に土塁が築かれているのを見て、これでは防禦には効果的でないという疑問を感じ、第8〜10号に書いた。

 その後、この問題を取り上げている論文をみつけた。

 佐原真の「日本・世界の戦争の起源」(金関恕・春成秀爾 編『佐原真の仕事 4戦争の考古学』岩波書店・2005に収録)である。

 論文は三章にわかれ、「第1章 戦争の定義と証拠」のなかに「外壕内壁・外壁内壕」がある。

 外壕内壁・外壁内壕という表現は言い得て妙とも思うが、「壁」という字に違和感をおぼえる。

 土塁を築き、柵を設けたであろう構築物を一括りに「壁」とよんでいいものであろうか。

 考古学の用語は、研究者によって異なっている場合が、少なからずある。

 前から気になっていたが、集落をめぐる溝を「環溝」「環濠」「環壕」などの表現が使われている。

 考古学の世界では統一された用語の決まりがないのであろうか。

 ヤマトと大和、ムラと村、クニと国、これらを使い分けている文章をみるが、その基準はあきらかにされていない。

 シンポジウムや討論会のとき、研究者が私はそんな意味でその言葉を使っていないと言い始めたら、議論にならない。

 用語の使用が研究者の好みにまかされているようでは、考古学の将来はおぼつかない。

 濠と土塁の位置関係の用語についていえば、佐原本の参考文献欄で「環壕外土塁」の表現をみつけた。

 久世辰男「弥生環壕集落の環壕外土塁についての疑問」(『利根川』第14号・1993)である。(未見)

 自動的にこの逆は「環壕内土塁」となる。

 いままでに日本で発掘されている濠の大部分が空堀と考えられるので「濠」は「壕」のほうが実情にあっていると思う。

 以後、私も「濠」を「壕」の字にかえて使用する。

 ちなみに、私の好みでいえば、「外壁内壕」より「環壕外土塁」の表現のほうが、いまのところいいと思っている。

 話が横道にそれた。


 佐原論文の「外壕内壁・外壁内壕」を引用し、検討してみる。

 ≪防壁と壕とを設けるとき、壕を外側に防壁を内側にする(外壕内壁)のが大昔から世界的にみてもごく普通である。≫

 大昔というのがいつ頃を示しているのか不明だが、「環壕内土塁」が一般的であるというのは、土塁が内側にあるほうが防禦には効果的という私の理解とも一致する。

 ということは、大塚遺跡や吉野ヶ里遺跡は世界的にみて、例外であるということになる。

 ≪しかし、世界は広く、逆に外壁内壕をする実例もある。
  ドイツではケルト民族の防塞都市(オビドウム)、ウェストファーレン州ヴィルツェンブルクがそうであることを千田嘉博が実査して確認している。
  イギリスの代表的な遺蹟として名高いドーセット州のメイドゥン=カッスルをはじめとして、丘上の防塞(ヒルフォート)に何例もある。
  ニュージーランドでは、四〇〇年前以来のマリオ族の防禦集落(パア)に、南島のカイアポヒアをはじめとして外壁内壕の実例が指摘されている。≫

 ドイツ、イギリス、ニュージーランドの例も大切と思うが、日本の環壕に一番縁の深い中国や朝鮮の例はどうなっているのだろ。

 ≪日本の弥生時代の村の多くは外壁内壕であった。九州ではX期後半に外壕内壁もある、という。≫

 世界の実情と日本の弥生時代の環壕の様子が異なるのはなぜだろう。

 ここが一番問題なのである。

 佐原論文に、このことに関しての言及がないのは、残念である。

 ≪青森県浪岡町にある九〇〇年前の蝦夷の防禦集落、高屋敷館も外壁内壕である。
  小林達雄はこの遺跡を訪ね、弥生の外壁内壕が防禦を目的としたものではないことを確信したという。
  同じ遺跡を訪ねた私は、弥生だけでなく、ここにも実例があることを喜び、土塁の上にやっと登った不安定の姿勢の敵は恰好の的になる、という中世史家の解説を心地よく聞いたのだった。≫

 壕と共に遺存する土塁の例がほとんどないので、ここにも高屋敷館遺跡が取り上げられていることは当然と思われる。

 しかし、佐原の説明はあまりにも文学的であり、単に感想を述べているにすぎない。残念である。

 「土塁の上にやっと登った不安定の姿勢の敵は恰好の的になる」ことが、「環壕外土塁」の存在する十分な理由であると佐原は思っているのであろうか。

 高屋敷館遺跡の土塁の上幅の実測値がはっきりしないが、実測図から推測すると約20cmほどと思える。

 土塁上に歩くには少々狭いと思うが、十分な幅がなくても、土塁にはしごを立てかければ土塁上部に容易に達することができる。

 そして、大塚遺跡や吉野ヶ里遺跡のように土塁上に柵列があれば、柵につかまり、柵にかくれることができ、恰好の的とばかりとは言えないと思うが、いかがであろう。

 もっとも、佐原は同論文で密接式の柵はあやまりで、間隔を置いた柵に改めるべきであるといっている。

 それでも、間隔を置いた柵に横木を重ねた壁は考えられるので、やはり「環壕外土塁」の存在理由とするには不十分である。

 佐原が掲載するローマ軍の逆茂木を示す図中に間隔を置いた柵に横木を重ねた壁が描かれている。

 この壁は敵側にとって、集落側からの矢や投石を防ぐ役割を十分に果たすことになる。敵にとって有利な施設である。

 集落側が、敵を狙うのに有利な高所である土塁上からの攻撃を全く考えていない防御施設は納得がいかない。

 また、仮に土塁上が不安定で、恰好の的になりやすいとしても、それは土塁が壕の外にあっても、内にあっても同じことで、外側にある必然的な理由にはならない。


 私は環壕や土塁が防禦施設ではないと言っているのではない。

 「環壕外土塁」は、「環壕内土塁」と比べると防禦効果が落ちると思われるのに、なぜ、日本の弥生時代の環壕は外側に土塁を築いたのか、その理由が知りたいのである。

 正面からこの問題に取り組んでいる論文に、いまのところ出会っていない。

 久世論文をみたくていくつかの図書館を探したがいまだにみつかっていない。

 この問題が考古学者に荷が重いのならば、城郭の研究者や軍事の専門家に聞くのも一案である。

 存外、明解な理由を教えてくれるかもしれない。

 この問題は、どうも簡単には片付きそうもない気がしてきた。


  写真:『佐原真の仕事 4戦争の考古学』(岩波書店・2005)の帯付きの表紙。

  挿図:ローマ軍の土塁と逆茂木の復元図にみられる間隔を置いた柵に横木を重ねた壁(『佐原真の仕事 4戦争の考古学』より)

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