先日、友人ら3人と石川県・能登半島に遺跡・寺社を巡る古代史の旅をしてきた。企画・案内は櫻井君である。
彼は、能登の一宮・気多大社の宮司を長い間努めてきた櫻井氏に繋がる家系の古代史研究者である。
第56号で、彼の著作を紹介してある。
旅行は三日間とも雨に降られ、難行苦行ではあったが、それ以上に訪れた場所は充実し、感動し、素晴らしかった。
旅行の内容は、後日機会があったら紹介したいと思っている。
旅から帰って、櫻井君からメールが届いた。
能登の遺跡の発掘調査報告書があるから、寄贈してくれるという。
彼からは、以前にもたくさんの古代史本を貰っている。
回った遺跡はみな素晴らしく、詳細を知りたい個所がたくさんあったので、
今回の申し出も、とても有り難く感謝に堪えない。
『吉崎・次場遺跡(概報)』1982・羽咋市教育委員会
『吉崎・次場遺跡』1987・石川県立埋蔵文化財センター
『柴垣ヤッキャマ古墳、吉崎・次場遺跡第18次』2001・石川県羽咋市教育委員会
『羽咋市埋蔵文化財発掘調査報告書(昭和59年度)』1985・羽咋市教育委員会
『羽咋市遺跡地図』2000・石川県羽咋市教育委員会
『眉丈台の遺跡群』1992・羽咋市教育委員会
『太田遺跡』1991・石川県羽咋市教育委員会
『雨の宮古墳群』1993・石川県鹿西町教育委員会
『史跡雨の宮古墳群整備事業報告書』1998・石川県鹿西町教育委員会頂いた本は9冊。どれも手に入れるのが難しいものばかりである。
能登には縄文時代前期初頭から晩期終末まで続いた真脇遺跡がある。
青森県の三内丸山遺跡をはるかに超える長期定住集落遺跡である。
能登の縄文時代に引き続き、弥生中期から古墳前期まで栄えた大規模な集落跡の吉崎・次場(すば)遺跡がある。
この遺跡からは、大型建物、大溝などが見つかっている。
特に注目されるのは、ほう製小型内行花文鏡の出土である。
日本で発見された青銅鏡のうち、時期的に一番古いクラスの鏡という。
続く古墳時代も前期の雨の宮古墳群から終末期の須曽蝦夷穴古墳まで能登半島内に連綿と古墳が築造されている。
なかでも興味深いのが御陵山古墳、親王塚古墳など陵墓に指定された古墳である。
なぜ、陵墓が能登にあるのか?畿内ヤマト政権と緊密な関係が推測される。
駆け足で巡った能登ではあるが、古代史に重要な地域であることを教えられた。
古代史を調べる場合、九州と近畿に目が行きがちである。
これからは、能登にも目を向けて考えなければならないと痛感した。
それには、今回頂いた能登の発掘調査報告書は必要不可欠な資料である。
櫻井氏には改めて、心よりお礼申し上げる。
写真上:櫻井氏より頂いた本の一部。写真下:眉丈山脈の最高所に築かれた雨の宮古墳群の1号墳と2号墳。
1号墳は左側の前方後方墳、2号墳は右側の前方後円墳。
(『史跡雨の宮古墳群整備事業報告書』の表紙より)
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