館長だより 第109号
館長だより 第109号

館長のおもいつき(19)

2017/12/03

   ☆ 鵜飼の考古資料

 最近、私はスクラップブックの整理をしている。

 新聞に考古学や古代史関連の記事を見つけるといつも切り抜いている。

 とりあえず袋に入れ、いつかスクラップブックに貼ろうと思っている。

 それが、いつのまにか十年分ほどたまっている。

 そこで、あわててスクラップブックの整理をはじめたわけである。


 平成11年(1999)10月13日の毎日新聞に鵜飼を示す確実な考古資料の記事をみつけた。(写真1)

  〈古墳期にウ飼い 群馬・はにわ出土〉と見出しにある。

 同日の朝日新聞にもある。

  〈5世紀末 ウ飼いのはにわ 群馬県の遺跡 習俗を示す最古の資料〉

 地元の上毛新聞に詳しく記載されている。

  〈鵜飼い示す埴輪 群馬町八幡塚古墳 「日本最古の資料」〉

 八幡塚古墳は保渡田古墳群に属し、その所在地は群馬町から高崎市保渡田町に変わっている。

 以下、上毛新聞の記事を紹介する。

  〈高さ67a長さは47aで、ほぼ完全な形。
  鈴のついた首輪をつけ、約十aの魚をくわえた形をしている。
  鵜飼いが古くから行われていたことは文献で知られており、
  古事記(8世紀初め)や万葉集(8世紀)にもうかがわれる。〉

 『日本書紀』神武天皇の条に鵜養部の記述がある。

 「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」

 『古事記』にも「鵜飼で漁をする人々よ、助けに来てほしい」と鵜飼のことを歌った歌謡が載っている。

 『万葉集』には「鮎が躍るころになったら、辟田川で、鵜をいっぱい使って川瀬を探って行こう」という意味の歌がある。

 考古資料としては、山口県・土井ヶ浜遺跡(弥生時代前・中期)から鵜を抱いている女性の人骨が出土している。(写真2)

 このことより弥生人の生活の中に鵜が存在していたことはわかるが、鵜飼があったとまではまだ言えない。

 『土井ヶ浜遺跡と弥生人』(土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム・2003改訂版)に解説がある。

  〈弥生人にとって、鳥は特別の存在でした。(中略)
  鳥は天井の神の国と地上の国との間をとりもつ使者であり、
  豊作をもたらす穀霊や、祖先の霊魂を運ぶものと信じられていました。(中略)
  この土井ヶ浜の女性が鵜を抱かされて葬られたのも、こうした鳥の霊力を信じて、
  死後の魂を鵜に託すムラ人の願いがこめられていたからなのでしょう。〉

 土器では、岡山県邑久(おく)郡国府の古墳出土の鵜飼を表わす須恵器(6世紀後半)がある。

 装飾付子持脚付壺である。(写真3)

 土器の頚部に4つの小壺があり、その間に4種の小像の装飾がある。

 そのひとつに鵜飼の様子を表現した場面があるという。

 ネットの写真掲載者は、よく見ないとわかりにくいという。

 残念ながら、写真をよく見ても私にはわからない。

 めずらしい土器に、山梨県・外中代遺跡(古墳〜平安)から出土の暗文絵画土器がある。(写真4)

 大きさは直径約16センチの円形で、器の蓋と考えられている。

 暗文とは、半乾きの土器にヘラの先端で文様を描く手法で、8世紀初めによく見られたという。

 描かれた絵の中に、鵜が川に潜る場面と魚をくわえる場面が共にある。

 二つの場面は連続画となり、この絵は異時同図となる。

 極めて重要な発見という。

 この土器によって、甲府市・笛吹川で平安時代に鵜飼が行なわれていたと推測される。

 鉄剣に銀象嵌で描かれた鵜もある。

 熊本県・江田船山古墳出土の「獲(加多支)鹵大王」銘で有名な大刀である。(写真5)

 大刀の裏側の左側に魚と鵜が並んで描かれている。

 鳥はくちばしの先がまがっているので、鵜とわかる。

 魚と鵜がセットなので、鵜飼があったと充分に思われる。

 これは上野の東京国立博物館へ行けば、いつでも見られる。


 話を鵜飼埴輪に戻すと、新聞には大塚初重氏の話がある。

  〈魚をくわえている鳥の埴輪が見つかったのは、おそらく日本で初めて。
  東日本の毛野(けぬ・群馬の古名)で鵜飼いが行われていたことを示す重要な発見。〉

 今回の鵜飼埴輪の発見によって、日本での鵜飼は5世紀後半までさか上ることになった。

 現在、鵜飼は中国・揚子江流域でひろく行われている。

 私は、この揚子江流域の鵜飼文化が、稲作などと共に日本に伝えられたものと深く考えずに思っていた。

 ところが、それを否定するような記録が中国の『隋書』にあることを知った。

 『隋書』開皇二十年(600年)の条(卷八十一列傳第四十六)である。

  〈以小環掛鷺ジ項,令入水捕魚,日得百餘頭〉(ジ=茲+鳥)

  〈小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。〉

 日本を訪れた隋使が日本のめずらしい習俗として鵜飼のことを記している。

 つまり、開皇二十年(600年)には、中国人にとって、鵜飼はめずらしい漁法ということである。

 日本では岐阜・長良川をはじめ、東は群馬・井野川(?)、山梨・笛吹川、から冨山・田島川、愛媛・肱川、西は福岡・筑後川という広範囲で行なわれていたという。

 鵜飼は、日本発祥の漁法なのであろうか?

 『鵜飼』を著わした可児弘明氏によれば、「朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はみつからない」という。

 朝鮮半島経由で、鵜飼が伝わったことはなさそうである。

 中国で発祥とすれば、以下のケースであろうか。

 鵜飼は、揚子江流域で発祥して行なわれ、それが日本に伝わり、各地に広まる。

 中国では、600年ころまでには、鵜飼はすたれ、忘れられていた。

 隋使が日本の鵜飼を中国に逆紹介をして、今日に至る。

 そういえば、神武天皇の父親の名前は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)である。

 ウには音だけでいえば宇、羽、右などほかに多くの字がある。

 鵜が選ばれているのは、それだけ意味があるのであろうか。

 神話に水田や矛が出てくるので、その時期を弥生時代とすれば、鵜飼の開始が弥生時代の可能性も少し高まるかもしれない。

 いずれにしても、鵜飼の歴史は、まだまだ奥が深そうである。


  写真1:魚をくわえた水鳥形はにわ(かみつけの里博物館 蔵)(『毎日新聞』1999.10.13より作成)
  写真2:鵜を抱く女性(『土井ヶ浜遺跡と弥生人』土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム・2003改訂版より)
  写真3:岡山県邑久郡国府の古墳の鵜飼を表わす子持台付須恵器(辰馬考古資料館 蔵)(ブログ「ばじなみこ今日の切り貼り」より)
  写真4:鵜の連続表現を描く暗文絵画土器(甲府市 蔵)(ネット「山梨県立博物館・シンボル展『鵜飼』」より)
  写真5:江田船山古墳出土・銀象嵌銘大刀の鵜(東京国立博物館 蔵)(ネット「e国宝」銀象嵌銘大刀より)


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